趣味で旅した日本各地の風景、滝、灯台やマンホール蓋などを紹介しています。
日本にはたくさんの面白い・珍しい所があります。
多くの人に知ってもらうきっかけとなれる、ブログを目指しています。
過去に訪れた場所も多々あるので、現在と違っている場合もありますが、こんな感じである・あったと、訪れる際の参考にしていただけたら幸いです。
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《訪問年:2017年》
沖縄県にある沖縄都市モノレール(ゆいレール)の駅で、日本最南端の駅となっています。
隣駅の那覇空港駅は「日本最西端の駅」と「日本最南端の終着駅」であり、隣同士の駅で鉄道における日本記録を3つも持っています。
日本の法律上ではモノレールも鉄道に分類されます。
ゴムタイヤで走行しているためしっくりきませんが、鉄道事業法か軌道法が適用されるれっきとした鉄道です。
2003年(平成15年)に沖縄都市モノレール開業に合わせ営業開始となりました。
赤嶺駅開業に伴いこれまで日本最南端駅であった鹿児島県にあるJR九州 指宿枕崎線の西大山駅が「JR日本最南端の駅」に変更となりました。(鉄軌道としては現在も日本最南端ですが、、)
翌2004年に駅前広場に「日本最南端の駅」の碑が建てられました。
沖縄都市モノレール(ゆいレール)は、沖縄の玄関口である那覇空港最寄り駅である「那覇空港駅」を起点に「てだこ浦西駅」までの19駅17.0kmの路線です。
今後、さらなる延伸が計画されており観光客の利便性向上が期待されています。
沖縄県では戦前に路面電車や軽便鉄道が走っていましたが、路線バスとの競合に敗れたり太平洋戦争の悪化で姿を消しました。
戦後初の鉄道路線であり、車社会である沖縄県の特に那覇市内の渋滞緩和に効果を発揮しています。
まもなく3両編成となり、さらなる輸送力の増強が図られる予定です。
日本の端っこにある駅。
・日本最西端駅(鉄軌道)・・・松浦鉄道 西九州線「たびら平戸口駅」
・日本最西端駅(全鉄道)・・・沖縄都市モノレール「那覇空港駅」
・日本最南端駅(鉄軌道)・・・JR九州 指宿枕崎線「西大山駅」
・日本最南端駅(全鉄道)・・・沖縄都市モノレール 「赤嶺駅」
・日本最南端終着駅(鉄軌道)・・・JR九州 指宿枕崎線「枕崎駅」
・日本最南端終着駅(全鉄道)・・・沖縄都市モノレール 「那覇空港駅」
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《訪問年:2017年》
兵庫県 神戸市にある灯標です。
1893年(明治26年)11月1日初点、現存する日本最古の水中コンクリート製の構造物です。
平磯海づり公園の沖合い1.1kmの暗礁上に建てられています。
明石海峡は潮流が早く、古くから難所となっていました。
平磯灯標の建つ暗礁には、江戸時代頃から木製の標柱が立てられてきましたが、潮流によって何度も流出したそうです。
1887年(明治20年)には石造の灯標となりましたが、波浪で破損したため現在のコンクリート製に建て替えられました。
イギリス人作家 サマセット・モームが、1924年~29年にかけてアメリカの雑誌コスモポリタンで連載したものを集めた、短編集「コスモポリタンズ」の一つである「困ったときの友」に平磯灯標が登場します。
作中では「信号浮標」となっています。
日本の民間初であるセメント会社、山口県の小野田センメント(現太平洋セメント小野田事業所)で造られたコンクリートを使用しています。
小野田セメント第一号のセメントで「平磯灯標」が造られた、と紹介される時がありますが、炉の完成は1883年であり10年後に点灯した灯標が第一号であったかは疑わしいとされています。
日本初の水中コンクリート建造物は、1890年に関門海峡に建てられた灯標(現存せず)と言われています。
平磯灯標が日本民間初の炉で作られたセメントで出来ているのは間違いないので、歴史を感じながら眺めるのも良いかもしれません。
灯塔は南方位標識の意味である、下部を黒色、上部を黄色に塗られています。
これは灯標の南側が安全に航行できる水域で、北側には障害物があることを示しています。
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《訪問年:2011年》
洗い越しとは川が道路上を横切る構造になっている道の事です。
数が減ってしまい日本では珍しくなってきています。
県道34号線には他にもいくつかあったそうですが、改修され残っているのはここだけです。
川底はタイヤが埋まらないように石畳になっています。
苔などで滑るので歩きで渡る時は注意がいります。
渡しの板などが無いので、雨の後などは徒歩で渡るのに苦労します。
坂道の途中のカーブにあるので周囲は広くなっています。
県道34号線自体は酷道(険道)ですが、生活道路にもなっているため一部で路線バスが走っています。
近くには廃村があったりと、限界集落の問題を目の当たりに出来る道です。
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《訪問年:2015年》
大分県 竹田市にある水路橋で、国内最大規模の水路用石造アーチ橋です。
明正井路一号幹線一号橋(めいせいいろいちごうかんせんいちごうきょう)と読みます。
また、橋の名称板にあるように明正井路第一拱石橋(めいせいいろだいいちこうせききょう)とも呼ばれています。
1924年(大正13年)に竣工した用水路である明正井路一号幹線の一部で、橋は1919年(大正8年)に完成しました。
明正井路は江戸時代末期に構想され、明治時代で計画、大正時代に着工・完成した総延長175kmにも及ぶ大規模な灌漑用水です。
起伏が激しく、多くのトンネルと大小17基の水路橋が建設されました。
資金難や難工事、戦争による資材不足など幾多の困難に直面しながらも建設が続けられ、開田面積約402haという広大な面積を潤す重要な水路となりました。
構造は6連石造アーチ橋で、橋長78.0m、橋高13.0m、幅2.8m、アーチ幅10.7mとなっています。
橋の下を緒方川が流れていますが、川は1連で跨いでおり他の5連で谷を跨ぐ構造となっています。
2012年の豪雨により橋脚等が破損しましたが、翌年に復旧しています。
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《訪問年:2015年》
国内最長の石造アーチ橋であり、8連石造アーチは国内唯一となっています。
橋長116m、径間12.8m、アーチ高さ3mです。
名勝 耶馬溪にある「青の洞門」の下流500mに架けられています。
架橋目的は観光用とされていますが、近くにあった陸軍の日出台演習場への要路確保も兼ねていたのでは、と言われています。
地元では「オランダ橋」と呼ばれています。
石の積み方が長崎県の石橋に多く見られる水平な積み方からきているそうです。
1999年にコンクリート製だった高欄が石造に取り替えられ、当時の写真を元に修復工事が行われました。
2012年の豪雨により橋脚等が破損しましたが、翌年に復旧しています。
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《訪問年:2015年》
名勝として有名な「耶馬溪」の中にあります。
山国川に面してそそり立つ競秀峰の下部を掘り抜いたトンネルです。
青の洞門の総延長は342mで、そのうち144mがトンネルとなっています。
江戸時代、諸国遍歴の途中にこの地を訪れた禅海和尚が、鎖渡しと呼ばれる難所で命を落とす通行人を見て、トンネルを掘り安全な道を造ろうと工事に取り掛かり、約30年の歳月をかけ1750年頃に完成させました。
托鉢に回り、その浄財を資金に石工を雇いノミと槌だけで掘り抜いたと言われています。
開通後は人が4文、牛馬は8文の通行料をとっていたそうで、日本最古の有料道路と言われています。
明治時代に陸軍の日出台演習所への道路整備に伴い拡幅工事が行われたため、往時の形はかなり失われてしまいました。
一部に明かり採り窓や通路のノミの跡などが当時のまま残っています。
全国的に知られる様になったのは菊池寛の短編小説「恩讐の彼方に」で、この青の洞門がモチーフとして描かれたのと、1923年の「尋常小学国語読本 巻十二」という教材に史実としての禅海和尚の話が取り上げられ広まりました。
青の洞門から下流500mの場所に、日本百名橋に選ばれている「耶馬渓橋」があります。
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