《訪問年:2010年/2014年》
鎧(よろい)駅と餘部(あまるべ)駅の間に架けられているコンクリート橋です。
橋長は310mと大した橋ではありませんが、架け替え前の鉄橋時代に観光地化していた事もあり、鉄道橋では全国的にも名が知られています。
2010年(平成22年)に2代目として、98年間使用された鉄橋からコンクリート橋に架け替えられました。
これまで何度か新線建設や架け替えが検討されましたが、事業費の都合などで補強改良で乗り切ってきました。
落下物や飛来物、風による規制、雪や雨、騒音、老朽化など様々な要因が重なり、ついに架け替えとなりました。
新橋梁では前述の問題を解決する為にいろいろ工夫がなされています。
初代は鋼製トレッスル橋で独特な構造と美しい朱色が特徴で「余部鉄橋」と呼ばれ多くの人に親しまれていました。
1909年(明治42年)に着工し、1912年(明治45年/大正元年)に開通しました。
全長が約310.6m、下を流れる川の川床から約41.5mで、11基の橋脚と23連の橋桁からなる鋼製トレッスル橋でした。
橋脚の鋼材はアメリカから輸入し、船で海から搬入しています。
33万円(明治45年当時)という巨費と、延べ25万人を要した大工事でした。
建設当時はトレッスル橋としては東洋一で、現在でも日本一だったそうです。
98年間にも及ぶ運用実績を残し、役目を終えた鉄橋は一部を残して解体され、多くの研究機関で強度や錆等の試験に活用されています。
また、一部残された鉄橋は「空の駅」として観光客に公開されています。
開通当時からきめ細かな保守・維持作業が行われてきたのと、設計が適切で精度の高い工事で建設された為、阪神淡路大震災後の建築基準にも多少の補強で十分クリアできるほどの強度があったそうです。
そのおかげで一部が展望台として活用されています。
開通時は餘部駅は無く、近隣住民は列車の合間を見て橋梁やトンネルを歩いて隣の鎧駅まで歩いていたそうです。
餘部駅は1959年(昭和34年)に開業しました。
余部鉄橋では1986年(昭和61年)12月に日本海からの突風にあおられた回送列車の客車が転落するという大事故が発生しました。
橋から転落した客車内にいた車掌1名、下にあり直撃を受けたカニ加工工場にいた5名の計6名の死者と、他に6名の重傷者を出しました。
この事故はいろいろな要因(天災と人災の双方)が合わさって発生しました。
事故現場となった橋の下に慰霊碑があります。
空の駅として整備されています。
旧軌道がそのままになっています。
餘部駅のホームからも入れます。
仮設駅の時に通路だった部分。
鉄橋部分への入り口。
海側に枕木を再利用したベンチがあります。
乗り鉄した時に見た風景。
ベンチの足元はグレーチングになっています。
張り出している部分なので、地面まで何もありません。
一部ガラス張りになっており、下を見る事が出来ます。
先端部分は鉄橋時代のままとなっています。
旧橋梁時代から有名であった撮影ポイントへ。
この橋は本当に美しい構造デザインです。
建築物が好きな方には是非見に行って欲しい橋です。
トンネルは開業当時のままなので、接続するため新橋梁部分がクランク状になっています。
撮影ポイント。
新しくなった餘部駅。
鉄橋が2径間残されています。
橋の下に整備された公園。
枕木等の廃材が再利用されています。
カニの足の様。
この時は(2014年)エレベータがありませんでしたが、現在は東屋の奥に設置されています。
列車転落事故の慰霊碑。
道の駅向かいに展示されています。
旧橋梁の国道を跨いでいた部分です。
ここからは、旧橋梁の鉄橋時代です。
近くにある漁港から。
特急列車と。
普通列車。
国道と交差する橋桁に橋梁名が書かれています。
この部分が、道の駅の向かいで展示されている箇所になります。
時代が変わっても古き良き風習は残って欲しいです。
旧橋梁。仮設ホームへの通路から。
現在は空の駅となっています。
工事中の新橋梁。
橋の幅が大きくなり、防風壁が設けられています。
出発信号に設置されている強風警報用の特発です。
車窓から見た余部集落。
行き方:
大阪、京都方面から舞鶴自動車道や国道9号線を鳥取方面へ行き、養父で国道312号線、豊岡から国道178号線を行くと橋に着きます。
駐車場は橋の下に道の駅があります。集落内を抜けて小高い山を登ると餘部駅があります。
依然は餘部駅には徒歩でしか行けませんでしたが、空の駅として公開された際にエレベータが設置されました。
JR姫新線に余部(よべ)駅という同じ漢字を使う名前の駅があるので、時刻検索の際は注意です。